2010/04/10

色について


ボリビアのラパスから車で2時間くらいの所に、ワイナポトシという山がある。
この山の標高は6088メートル、富士山が3800だから、そこからさらに2000メートルほど上ることになる。この山の5000メートルからは世界が変わる。
見ている景色のすべてが氷河になるのだ。
ときどきみえる岩肌と、氷河の割れ目が唯一景色にアクセントを残している。

このとき自分の状態は最悪に近かった、ただでさえ標高が高く息がくるしいのに前日キャンプに移動するために、すべて装備をもって、(氷河を登るとき時にひつようなピッケルやスパイク、プラスチックブーツ、食料など)4000メートルから5000メートルに移動したり、出発が午前2時なのに、高地でなので眠りも浅く。さらに長旅の疲れからか、発熱していた。

一旅人が登れるくらいの山だから、決まったルートがあり大丈夫だと思っていたが、そんなことはない。ほぼ垂直の壁を3人ロープで体を結びつけて上り、氷河の割れ目をジャンプして乗り越えていくのだ。
約五時間歩き続けてやっとたどり着いた、6000M超という、極限状態。直径1mもない絶壁の頂上。360度自分より高いものはない。朦朧としていて、上に登ることだけを考えてた脳みそが、一気に開放される。
その突き抜けた感じとゆっっくりと上ってくる太陽がだんだん空をそめていく暖かさが、自分を最高に気持ちよくしてくれた。その時、自分は何をを感じたのだろうか?地球は丸い、人は小さい、自然の雄大さ、それらのことについても考えた。

しかし、一番感動したことは色についてだ。体がつかれきっている、脳みそも疲れきっている、意識することができない状態で、自然と目に入ってくる景色の色の豊かさに、ただただ感動した。


自分が旅をしてよかったと思うこと、それはおそろしく多くの色をみることができたからだと思う。自然の色、人の色、そして文化も色をもっている、そしてのそれぞれ特色をもっている。日本では出会うことの無い色たち。実際出会わないとわからない、素敵な色たちが世界には溢れている。

家探し

東京に舞い戻ってきて、まず考えたこと、それは自分が当然と思えるようなことを一度考え直そうと思った。新しい住居を決めということは、自分のライフスタイルを考え直すことと、イコールだと思う。自分はなるべく今の日本の新しい文化を感じられるような家に住みたいと思い家探しをし始めた。

□ シェアハウス

今、とても面白い居住形態が東京にある。それはシェアハウスというものだ。
ここ数年で都内に増え続けている。それはひとつのビルのなかにトイレや、キチン、風呂といったものだけ共有し、部屋は個々にあるといったものだ。自分が決めたところは、デポジットとして2万円、手数料5000円、家賃(光熱費、インターネット代込)43000円という格安のもだ。
日本の家賃は本当に高い、そして狭い。都内で1Kバストイレ別で6畳といったら安くても6~7万円さらに敷金礼金をいれたら初期投資はかなり大変だ。さらに、毎月それだけのお金を払っても、働いていれば家に帰って寝るだけ、趣味のための荷物を置いたらぎゅうぎゅうになってしまうのが、一人暮らしの常だ。


ほかにもシェアハウスは一人暮らしでわずらわしいものをすべて払拭できる。ビルには管理人が着いており一人ぐらいでめんどくさい、掃除類、ゴミだし、備品の補充ははやってくれる。ビングルームは約20畳という広さだ。キッチンも広く冷蔵庫は個別に用意してある。

しかしシェアハウスにはいいところはたくさんあるが、住むところ=プライベートな空間と考えていたらすむことはできない。生活のほとんが、同居人と顔をあわせてすることになるからだ。その事を楽しいとさえ考えれば、とても魅力的な空間だと思う。

□ シェアハウスに決めたことについて、もうひとつ理由。

シェアハウスにすむことをすむことに対してもうひとつの考えがある。
世界を旅してきて、いろいろな都市を見てきた。そして日本の文化と様子が違うところに、居住区というものがある。自分が見てきた大都市にはかならず、なんらかの居住区があった。アメリカでは黒人居住区やアッパークラスの居住区、リオにはアラブ系から東邦系の居住区があったし
漢民族同士の中国上海にも、同じ地方出身に居住区があった。同じ人種同士が集団を作るのは、身を守るためでもあるし個々の弱い力を集団化して、大きな力や利便性を生み出すためだと思う。


しかし、世界を代表する大都市の東京にはそういったものは、まったくない。もともと統一民族国家ということもあるが、あまり他人にかかわろうとしない国民性もあると思う。さらに東京で働いてれば、たいていのことは不自由なく生活できるわけで、コミュニティーを形成す必要ようはないと感じる。
しかし、進んだ文化を持った、今の東京にも「コミュニティー」というものが生まれてもいいんじゃないだろうかと考えるようになった?

家を選ぶとき、家賃や間取りだけではなく
隣人を選べたらどんなに素敵だろうか。

それは民族とか人種の制約からではなくて、もっと進んだ文化である趣味や趣向と言ったものを共有する自由な共同体だ。インターネットで人気のSNSみたいなものが、現実に利益を共有ができたらそれはとても素敵なことだと思う。?たとえばバスケット好きの人がは、コート付の家があったらどうだろうか?しかもそのコミュニティーに同じ意思の人が集まりたくさんの集まるわけだから、いろいろな情報を共有できる。パソコン関係をしている人は、サーバがある物件を。料理好きにはハイテクなキッチンと、多数のシェア調味料など。服飾系の人には、リビングの代わりに裁縫室などを用意したらどうだろうか。しかもそういった自由な刺激は、お互いぶつかることでより大きなエネルギーを生み出すと思う。現に今、高級シェアハウスができているということだ、プライベートな部分を広く取り、共有スペースを広いスペースに高級家具を置き、落ち着ける空間を演出するといったものだ。物件の持つ価値の、割りと安くすめ、住んでいる人は会社のいい地位の人が住むため、住民同士の貴重な情報交換ができるというのが、その物件の売りだ。

シェアハウスは増え続けている。それは、おそらくそれを求めていた人が多くいたということで、さらにこれから増え続けていけば、それはブームメントになりよりひとつの文化になっていくと思う。そんな新しい文化の芽生えに付き添っていき、一緒に発展できていったらと思う。